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「基本的に、夜食べたいものって決まってるんだよね。焼き鳥か中華、タイ料理。この三択。それ以外が候補に出てくることは基本的に無い。何故かって?そりゃ、いつ食べても美味しいからでしょ。」
彼女は言う。何、それ以外に食べたいものでもあるの?と言わんばかりの、堂々とした態度である。
「じゃあその三択のうち、今日はどの気分なの?」
「うーん、今日はタイ料理かな。だって寒いし。」
彼女は言う。
答えになっているようで、答えになっていない、普通の人なら聞き返すようなその返答にも、僕は慣れている。しかし心の中に疑問は残る。その理屈なら、暑かったら焼き鳥で、涼しかったら中華なのだろうか?
彼女には自分基準によって定められた、強固としたルールがある。それはきっと、一生揺らぐことのない定めなのだろうし、ある種の縛りのようでもある。
天気によってその日の夜飯が決まるのであれば、例えばの話、朝飯はその日の気分で決まったりするのだろうか。
嬉しかったらトースト、寂しかったら納豆ご飯、というように。
彼女は歩き出す。僕も動き出す。よく行くタイ料理屋は、商店街に入ったらすぐ左手に見えてくる。ここらに住む人間なら、一度は行ったことのあるお店だろう。
いつもの通りこの時間は混んでいる、が、運良く待つことなくテーブル席に通された。
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「結局、タイ料理が食べたい時って、つまりはグリーンカレーが食べたい時なんだよね。それ以外ほぼ頼んだことないし。
あ、でも今日は生春巻きも食べたい。お腹に余裕がある時は、生春巻きも付ける。ここのお店ではこの二つしか食べたことないな。」
彼女はメニューを見ることなく、即座に決めてしまう。曰く、メニューを見ると揺らいでしまう可能性があるから。
僕は彼女と違って、今までに食べたことの無い料理を食べてみたいと思う。時間をかけて吟味する。
「もう、冬ってことだよね、十月の終わりだもの。列記とした冬だよね。タートルネックも着ていいし、タイツも履く。薄いタイツじゃないよ、裏起毛のタイツね、ユザワヤで安く売ってるんだ、毎年。
去年何本か買ったから、今年も少し買い足したい。
毛皮の手袋はまだ暑いけど、あと少ししたら身に付けられるって考えると、ちょっと嬉しい。」
彼女は喋る。
「そういえば昨日、映画を見た。ドライブ・マイ・カー。村上春樹原作のやつね。映画館で見たかったんだけれど、すっかり忘れてたらいつの間にか配信されてたよ。見るといいよ、すごく良かったから。
ん?違う、タクシードライバーじゃない。期間限定、専属の運転手。専属のドライバー。
村上春樹はいいよね、ほぼ読んだけれど、どれも基本的に同じな感じがして。話の根本がね、かなり共通してるからさ。いい意味でもストーリーをすぐ忘れちゃうんだよ。
だから定期的に読み返せる。そして、曖昧になってく。
個人的には男が主人公の話より、女が主人公の方が面白いかな。スプートニクとか、1Q84とか。久しぶりに読みたくなってきたな。
うん。ところで決まった?」
僕は答える。
「うん。大方決まった。ジンジャーチキンは確定として、あとはチャーハンかライスかで迷ってる。ジンジャーチキンだものな、ライスでもいいんだけど。でもこの魚介チャーハンは美味しいと思う。いや、前に食べたことあるかな。」
そんなの、魚介チャーハン一択でしょう。私も食べたいし、と、僕の決定を待たずに彼女は店員に注文を告げた。ちゃっかり、自分のお酒も頼んでいるあたり、本当にお腹が空いているのだと思う。基本的に少食であるが、食べる時には食べる。今日は食べる日であるらしい。寒いとタイ料理が食べたくなり、いつもよりお腹が空くのだろうか?
出会って二年以上経つけれど、こういう、彼女の中でしか作用されないルールを、新しく目撃するのは結構楽しい。
珍しく、普段なら頼まないモヒートを注文しているが、これもまた彼女の決まりの一つなのだろうか。
「私、お腹が空いてる状態って、貴重なの。昔からそうなんだけど、お腹が空きすぎると、つまりそのピークを超えてしまうと、お腹がいっぱいになっていくのね。
何も食べてないのに。ついでにお腹も痛くなっていくの。物凄く苦痛でさ、その痛みはしばらく消えないし。
だから、ピークを超える直前、本当に心からお腹が空いた!と思えるそのタイミングで、食事をしたいの。
そのタイミングを合わせるのってすごく大変でさ、実際。注文してから料理が出てくるのが遅ければ、その待ち時間でピークを超えてしまう可能性もある訳で。時間配分が難しい。
でも今回はよいタイミングで料理が食べられそう。もうすぐピークだけど、料理すぐ出てくるし。
いいよね、タイ料理って。」
彼女の言葉通り、つまりピークが来る直前に、僕らの前に料理が並べられた。
お通しのエビせん、彼女のモヒート、生春巻き、グリーンカレー、魚介チャーハン。
小さな机に料理が敷き詰められる様は、とても良いものだと思う。
「わかる。私の実家も、所謂ダイニングテーブル的なものが無かったから、ちゃぶ台でご飯食べてたんだよね。家族三人、床に座ってさ。
お母さん物凄く料理が上手かったから、毎朝毎晩、小さなちゃぶ台から溢れるくらい料理並べてねー、凄いよね。
え?無理だよ。私には出来ない。お父さんからすると、小さな机に料理が敷き詰められている状況、というのが好きだったみたい。
お母さん専業主婦だったから、料理は仕事と割り切って、毎日毎日料理人みたいにご飯作ってたな。
今思えば、そんな頑張らなくても良かったのにね。ま、私もその恩恵にあずかって毎日美味しいご飯食べてたんだけどさ。」
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彼女はとても喋る。ずっと喋っている。
しかし、一人で喋っている、という訳でもないのだ。僕も同じくらい喋っている。
つまり会話をしているという事になるのだけど、僕の口から出てくる言葉というものはどうにも僕の脳みそからするりと抜けてしまっていて、口が勝手に動いているかのように、つまり脳みそを使わずに、目の前の彼女と会話しているらしかった。
反射のようだ、と思う。頭を使わずに会話ができるなんて、今までに体験したことの無いことだったから。
あ、僕はこのように誰かと自然に会話できるのか、とたいへん驚いたものである。
しかも、それに気がついたのが最近ときている。あまりに自然すぎて、脳みそを使っていないことに気が付かなかった。
ペラペラと、さながらゲームのように、互いの反射を受けて答えて、受けて答えて。
脳みそを使わないからこそなのか、時間の流れもうまく把握出来ずに口を動かしてしまっていて、閉店までお店に居座ってしまったこともある。
僕は考える。
いつか、彼女を失ってしまうその時のことを考える。
考えるだけであって、現実のこととは縁もゆかりも無い話のように思える。いつか彼女は居なくなる、言葉にすれば簡単であるけれど、それが僕の生身に、いつか生身の僕が体験することに、現実として起きてしまうことにどうにも脳が働かない。
僕は恐れている。彼女と、生身の彼女と、こうして会話が出来なくなるその日のことを、想像も出来ないほどに恐れている。
彼女と会話をすることによって、僕はここに居るのに、居ると感じているのに、その全ての根本が覆される現状など、想像もできない。時間などという有限にとらわれることなく、ずっと君と会話をしていたいのに。彼女が居なくなる世界、死後の世界とは、一体どんなものなのだろう。
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「何言ってんの。死んだらそれで終わりだよ。私、幽霊とか前世だとか、生まれ変わりだとか、全く信じてないから。
信じてないというか、そんなのもしあったら、この世はさながら地獄でしょう。
この人生だから、いいんだよ。たった数十年のゲームだよ。
また一から、あなたの記憶もないまま、わたしの記憶もないままに別の人間として生きていくだなんて、それもまた死んだら同じ繰り返しだなんて、気が狂う。思いつく限りの地獄でしょう。」
彼女は言う。
「まず、私が死んだらあなたは悲しむ、そうだね、私も逆の立場ならそう思うわ。でも、考えてみてよ。私って、あなたの目の前にいるこの人間って、すごく曖昧なものだと思わない?
私のことを名前で呼ぶけれど、それに私は反応するけれど、一体あなたの思う''私''って何なのかしら?私の境界線ってどこになってくるんだろう?どこまでがあなたの言う''私''なのかな。あーごめん、時折考えてしまうんだよ、こういうこと。一体どこまでが自分なんだろう、ってことね。
道行く人達に同じ質問をしてみたとする。大抵の場合、この肉体の範囲が自分だ、と答えるんじゃないかな。
分かりやすいというか、まあ、物体としてある訳だしね、でもさ、私たち呼吸をして生きているでしょう?つまり酸素がないと死んでしまうじゃない。
長くても十分、酸素を取り入れないだけで死んでしまう。じゃあ、''私''が私でいるためには周りに酸素が必要な訳で、つまり、どこまでが自分なのかを考えた時、私を取り巻く空気も含めて、自分なんじゃないのかなと思うの。
それを考えていくとね、実は自分の境界線だなんて存在しないんじゃないか、と思えてくるのね。」
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喋りながらも、机の上を占領していた色とりどりなタイ料理を、僕たちは平らげた。
緑、赤、黄色、日本食では到底目撃することの無いだろう、カラフルな料理。
うむ、寒いからタイ料理、というのはあながち間違ってないのかもしれない。スパイスが効いていて体が温まるし、何故だろう、元気になれる気がする。脳に刺激を与える辛さと色というのは、気持ちにも作用してくる何かがある。
この料理達も僕らの体内に入り込み、栄養となって僕らの何かになる。僕たちを作り出す、何かになり得る。つまり、食べる前から、机の上に並べられた時から、それらは僕たちに''なる''ものであって、彼女の言う、境界線の話とも繋がってくる。境目が無いのだ。
食べる前から僕なのだから、例えそこに無かったとしても、結果として僕なのだ。
つまり、彼女と僕だって、実際のところ境目がなく、世界は段々と曖昧になっていくのだ。
だから僕たちは会話をする。自分たちを、少しでも分かりやすい何かにする為に。だから僕たちは手を繋ぐ。肉体などという分かりやすい境目を、溶かしてしまおうと思わんばかりに。だから僕たちは共にいる。死ぬ瞬間の僕たちを、互いの目で確かめるために。
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「ん、じゃあそろそろ帰ろうか。しっかりお腹も膨れたよ。やっぱりタイ料理はいいね、脳が刺激される感じ。で、ひとつ提案なのだけど。もっと脳みそ刺激しに行かない?つまりは君と、銭湯に行きたい、ということなのだけど。」
銭湯に行きたくなる理由、いや、行く理由、要素というのも、きっと彼女の中のルールによって決められていて、僕はその事について考える、暇もなく。彼女に手を引かれ歩き出す。
寒いからさ、と手をつなぎながら、僕のポケットに二人分の手を入れる。なんだかごちゃごちゃしているが、それもいい。
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「僕たちは、なんて言うか、すごくいいよね。」
商店街を抜け、暗い路地で僕は言う。
申し訳程度に置かれた街灯が、僕らの影を細長く、引き伸ばす。
「何言ってんの、当たり前じゃん。君、私が惚れた人間だよ。そうそう無いよ、これ。」
自意識過剰な気もする発言ではあるが、聞きなれた言葉でもあった。そして、僕はいつも、こう返す。
「うん。僕もしっかり、見る目があったみたいだ。」
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